人類の兵器所有と開発の是非 #02|核は倫理で止まったのか、抑止で止まったのか
―唯一の被爆国として揺れる、日本の選択

どうも、名ブタです。
前回は「アメリカの振舞から思う、日本防衛の脆さ」というテーマで、日本がどれほど他国に依存しているかを考えた。
今回はちょっと重めのテーマ。「核兵器はなぜその後使われなかったのか?」って話。
アメリカが広島・長崎で核を使った後、なぜ他の戦争では使われなかったのか。
「人類が倫理に目覚めたからだ」と言いたい気持ちもあるけど、僕はそうじゃないと思ってるんだ。
倫理で止まったのか?
確かに、原爆の悲惨さを知った科学者や市民運動が「もう二度と使ってはならない」と声を上げてきたのは事実。
アインシュタインも後悔をにじませたし、ノーベル賞受賞者の多くが核廃絶を訴えてきた。
「悲劇を繰り返してはならない」
この言葉は、被爆国である日本にとって特別な重みを持っている。
でも現実を動かすのは、必ずしも「理念」じゃない。ここが難しいところなんだよね。
倫理で止まるなら核実験の段階で止まっていると思うんだ。
抑止で止まったのか?
戦後、核を持つ国がアメリカ一国からソ連・イギリス・フランス・中国…と増えていった。
要するに「撃ったら撃ち返される」状況になったわけ。
この均衡があるからこそ、誰も安易に核のボタンを押せなくなった。
つまり「核兵器は使えない兵器」として存在している。
倫理ではなく、抑止の仕組みが使わせなかった。僕はそう考えてる。
今、アメリカに核が落とされたら。アメリカは核による報復はしないだろうか?
日本の揺れる選択
唯一の被爆国である日本は、この「倫理」と「抑止」の両方の狭間でずっと揺れてる。
核廃絶を訴えるのは当然としても、アメリカの核の傘に守られている現実は否定できない。
日米安保条約によりアメリカに守られるという事は、核保有国であるアメリカに守られてるという事を忘れてはいいけない。
もし本当にアメリカが「もう日本は守らない」と言い出したら?
そのとき日本が「核を持たない」という理念を守り通せるのか――。
ここで問われるのは、国としての覚悟だと思う。
「核なき世界」を掲げて潔く滅びる覚悟を選ぶのか。
それとも、被爆国としてあえて核を持ち「二度と使わない」という新しい抑止の形を示すのか。
名ブタ的まとめ
僕の考えはこう。
核が止まったのは倫理じゃなく抑止が大きい。だけど理念を軽んじていいわけじゃない。
だって「抑止」は力のバランスが崩れれば簡単に壊れる。
でも「理念」は未来世代に受け継ぐことができる。
だから日本には「唯一の被爆国」という歴史的立場から、理念を掲げつつも現実を直視するバランス感覚が必要だと思うんだよね。
名ブタでした。








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