合理と感情のあいだで、社会はどこまで冷たくなれるのか
──「二度と起きないために」という言葉を、額面通りに受け取った結果

どうも、名ブタです。
事故や事件が起きたあと、社会で必ずと言っていいほど繰り返される言葉がある。
「二度とこのようなことが起きないように」。
被害者や遺族の口から語られるこの言葉は、重く、正しく、誰も反論できない。
感情としても、倫理としても、否定してはいけない言葉だと思う。
ただ、第三者として一歩引いて考えたとき、ある違和感が残る。
この言葉を目的として額面通りに受け取った場合、私たちはどこまで踏み込む覚悟があるのだろうか。
被害者感情は否定できないし、否定してはいけない
まず前提として、被害者感情は否定できない。
怒り、悲しみ、やり場のなさは自然なものであり、「合理的かどうか」で評価するものではない。
感情は正誤の対象ではない。
だからこそ、被害者感情を否定する記事など成立しないし、書くべきでもない。
本稿で扱いたいのは、感情の是非ではなく、
感情と目的が常に一致するとは限らないという点だ。
「事故を無くす」という目的は、感情とズレることがある
「二度と起きないために」という言葉が、本当に事故ゼロを目的としているなら、
理論上はどんな手段も一度は検討対象に含める必要がある。
極端な例を挙げれば、
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語らない
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記憶を制度から切り離す
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象徴的な謝罪や記念を減らす
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忘却という選択肢
こうした倫理的に強い抵抗のある発想も、思考の段階では排除できない。
これは、それらを実行すべきだという主張ではない。
ただ、「感情に反するから」という理由だけで思考から追い出すと、
目的合理性そのものを検討できなくなる。
交通事故という極端な思考実験
交通事故を完全になくす最適解は何か。
突き詰めれば「車を無くすこと」だろう。
しかし誰もそれを選ばない。
被害者も含め、社会全体が車社会の恩恵を受けているからだ。
このとき、被害者・企業・社会は、実は同じ構造の中にいる。
責任の所在を無限に拡張すれば、最終的には社会全体に行き着いてしまう。
個人にも例外なく責任は及ぶだろう。全ての個人にだ。
改善は、必ずしも善とは限らない
「対策」「改善」「再発防止」は、ほとんど無条件に善とされる。
だが、壊れていないものに手を入れることで、新たなリスクが生まれることもある。
完成していた飛行機に、過去の恐怖を理由に改良を重ねた結果、
逆に不完全な機体になってしまう──そんな寓話は決して非現実的ではない。
改善とは常に前進なのか。
この問いは、一度立ち止まって考える価値がある。
記憶は抑止か、それとも再生か
核兵器の歴史は「忘れてはいけないもの」として語られる。
それは抑止力として機能している側面も確かにある。
一方で、記録を残すことは「再現可能性」を未来に渡すことでもある。
もし仮に、完全な忘却の方が再発確率を下げるという事実があったとしたら、
それを私たちは受け入れられるだろうか。
おそらく、感情的には受け入れられない。
靖国神社という分かりやすい矛盾
靖国神社をめぐる議論も、同じ構造を持っている。
弔いたいという気持ちは自然で、否定されるべきものではない。
しかし、その行為は真意は関係なく国際的摩擦を生んでいる。
これは将来の争いの火種を常にくべていると取られることもできる。
もし祭られている英霊当人たちが
「それで争いが生まれるなら、私たちのことは忘れてほしい」
と言ったとしたら、私たちはそれでも弔いを続けるだろうか。
弔いも記憶も、最終的には生者のための行為である。
補足:ここで言う「忘却」とは何か
ここで言う忘却や抹消は、実行すべき政策ではない。
倫理に反する発想を採用するための主張でもない。
完全な忘却は、問題意識そのものを消し、
結果として何も変わらないどころか、状況を悪化させる可能性がある。
実際、「忘れない」という行為は啓蒙として機能している。
民主主義社会においては、社会の声があるからこそ、
企業や政治家はそれを無視できない。
それでもなお、
倫理的に忌避される発想を思考の段階から排除しない姿勢
そのものが、ここでの論点である。
結論を出さない、という結論
感情に寄り添えば、不完全になる。
完璧を目指せば、感情に反する可能性がある。
この選択を当事者に委ねるのは酷だ。
だからこそ、第三者が引き受けるしかない。
被害者感情は否定できない。
しかし、感情だけでは最適解に辿り着けない場面もある。
人間社会は、その矛盾を抱えたまま進む。
合理と感情のあいだで、
私たちは今日も「正解の出ない選択」を続けている。
……う~ん。深いな。
名ブタでした。






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