善悪は存在するのか?──それでも僕が「他人を悲しませない」を軸にする理由
ー 憤りといたたまれなさから始まる問い

どうも、名ブタです。
痛ましい事件の報に触れて、どうしようもない憤りと、いたたまれなさを覚えた。
本来なら人は、人並みの幸せの中で天寿をまっとうするはずだ。それが、見も知らぬ誰かの手によって突然奪われる。
もし最期に見たものが加害者の顔だったとしたら──そう思うと、あまりにも残酷だ。
被害者や遺族の痛みを想像すれば、加害者への怒りをぶつける以外にできることはない。
それでも、心の奥底では「善悪とは何か」という根源的な問いに引きずり込まれる。
善悪は「存在する」と考える立場
宗教的な倫理や、人類社会で共有されてきた道徳を拠り所にすれば、善悪には越えてはいけない線がある。
「人の命を奪ってはならない」「他者を思いやれ」という言葉は、文化を越えて多くの場面で語られてきた。
だから、善悪は確かに存在し、社会の基盤を支えるものだと考えられる。
善悪は「存在しない」と考える立場
一方で、善悪を相対的なものと見る視点もある。時代や地域、社会の構造によって「善」と「悪」の基準は変化する。
多数派が正義を名乗り、少数派が悪とされることもある。
殺人が現代で「悪」とされるのは、法という枠組みがそう規定しているにすぎない、という考え方だ。
堂々巡りの危うさ
「善悪はある」「いや、ない」──両方の理屈は成り立つ。だから議論を深めると、結局「善悪など存在しない」という虚無に陥る危険がある。
そうなると、「人を裁くことは正しいのか」「被害者は弱肉強食で敗れただけではないか」といった冷徹な発想にまで流れてしまいかねない。
それは、僕が望む世界ではない。
僕の立場
だから、僕は立場を先に明確にしておく。
「他人であっても悲しい思いはしてほしくない」「皆が楽しく生きていてほしい」──これが、僕が自分で選んだ軸だ。
この望みを軸に置くことで、結果として「他人の命を奪わない」「人に優しくする」という現代的な道徳に辿り着く。
もちろん世の中には「他人の不幸こそ最大の幸せ」と考える人もいる。だから僕の理想は完全には叶わないかもしれない。
それでも、僕はこの軸を選び続ける。
こういうこともある──優しい世界を望む理由
遺族というのは、どんな状況であれ自分を責める。
「あの時電話をしていれば」「あと数分長く家に居れば」「自分が迎えに行っていれば」──そういう“もし”が、何度も何度も頭の中で再生される。
その後悔は消えない。日々の生活の中で、いつまでも胸に刺さったまま生きていくことになる。
僕は、そんな人が生まれない社会で生きたい。
誰かが突然奪われることのない、優しい世界を望んでいる。
だからこそ、被害者の痛みを忘れず、同時に「もしも自分の大切な誰かが加害者になったら」という想像力も持ちながら、僕はこの軸に立って発言する。
終わりに
善悪をめぐる議論に終わりはない。あるとも言えるし、ないとも言える。
だが、相対主義に溺れる前に「自分はどの軸に立つのか」を決めることが、人間としての一つの答えだと僕は思う。
僕は、「他人を悲しませない」という軸を選んだ。
それは完璧な答えではないかもしれないが、この軸があるからこそ、いたたまれない現実の中でも踏みとどまり、考え続けることができるのだ。
名ブタでした。








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