人類の兵器所有と開発の是非 #03|兵器と技術の二面性
―ノーベルとアインシュタインの苦悩の先に

どうも、名ブタです。
前回は「核は倫理で止まったのか、抑止で止まったのか」を眺めたよね。
今回は少し視点を変えて「兵器と技術」の関係を考える回。言い換えると、技術の進歩はどこから来て、どこへ行ってしまうのかって話だね。
兵器が引っ張った技術、確かにある
まずは素直に認めたいところ。兵器開発や軍事需要が、速度の面で技術を引っ張った局面は多い。
「より遠くへ、より速く、より正確に、より秘匿に。」この要求仕様は、通信・測位・材料・制御・暗号といった分野を一気に押し上げた。ロケット、ステルス、耐熱素材、誤差を詰めるセンサー制御……列挙は無限にできる。
ただし僕が言いたいのは、“兵器がなければ一切生まれなかった”と断言するのは危ういってこと。技術は人間の好奇心でも伸びるし、別の用途(交通・医療・インフラ)からも同じ枝に到達し得る。兵器は“加速装置”だった面が強い、くらいの言い方がフェアだと思う。
じゃあ、何が兵器を兵器にするのか
ここで一つだけ問いを置いておく。
「狩りのための罠」は兵器なのか?
縄や落とし穴、拘束具。害獣対策の電気柵。道具としては似てても、対象が人か動物かで意味が変わる。
猟銃だって同じ。機械としては一緒なのに、**“どこに向けるか”**で呼び名が変わる。道具の線引きは、結局“使い方”にぶら下がっているわけだ。
この「使い方が意味を決める」という事実は、後で出てくる偉人エピソードとも響き合う。
人は想像する。だから発想は止まらない
もう一つ、ここは押さえておきたい。人間は想像する生き物だ。
たとえ戦争が止み、兵器開発が政策的に凍る世の中でも、物語の中では“武器”が描かれ続ける。神話の雷槍、火の剣。近代SFの光線銃、不可視装置、軌道兵器。創作は「もしも」を肥やしにどこまでも増殖する。
その“もしも”が、やがて現実の研究に火を付けることは、別に珍しくない。戦場だけが発想の温床じゃないということだね。
平和的な探究が、兵器に接続してしまう現実
ここから偉人の話。名指しするのは簡単じゃないけど、やっぱり触れたい。
ノーベルの場合
ノーベルがやりたかったのは、危険なニトログリセリンの安全な取り扱いを可能にする発明。掘削・土木・鉱山で人の役に立つための工夫だった。それが戦争での大量破壊に使われ、本人は深く悩む。
結果として彼は遺言で賞を設け、“人類に最大の貢献をした者へ”と向きを変えた。発明そのものではなく、使われ方が人を苦しめるのだと知ってしまったんだと思う。
アインシュタインの場合
アインシュタインは自然の法則を知りたい人だった。理論が核分裂研究に橋を架け、時代の状況もあって、結果的に原爆へ繋がる。科学の核心は“なぜ?”であり、“どう壊すか”ではないのに、史実は科学を兵器に接続してしまう。晩年の後悔は、そのねじれの痛みだよね。
二人の共通点は、思想としては平和的で、探究心は人のために向いていたのに、成果が兵器に吸い寄せられてしまったこと。
ここに、技術と兵器の「二面性」じゃなく**“表裏一体”**みたいな、切り離しづらさが見える。
名ブタ的まとめ:苦悩を忘れないって、実は強い
僕たちはここで乱暴に結論を出さない。
ただ、三つは胸に入れておきたい。
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兵器開発は加速装置になることがある(だから技術の陰に戦争の影が落ちる)。
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想像は止まらない(戦争がなくても、物語が“危険な道具”を生み続ける)。
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技術の意味は使い道で決まる(罠も銃も、向けられた先で名が変わる)。
この三つを見据えた上で、ノーベルやアインシュタインの苦悩を忘れない。
それは「技術を止めろ」という合図じゃなく、“どう使うかを設計する責任”を僕らが持つという誓いだと思う。
次回はここから一歩進めて、「使わせない方向に社会を設計する」可能性――つまり無効化や抑止のアップデートについて考える。
名ブタでした。







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